細川隆弘

細川 隆弘
生年月日 (1967-04-01) 1967年4月1日(57歳)
出身地 日本の旗 京都府京都市
大学 同志社大学
ラグビーユニオンでの経歴
ポジション フルバック、センター
アマチュア経歴
チーム 出場 (得点)
伏見工業高校
同志社大学
()
シニア経歴
チーム 出場 (得点)
神戸製鋼 ()
代表
チーム 出場 (得点)
 日本 10
更新日:  2015年8月

細川 隆弘(ほそかわ たかひろ、1967年4月1日 - )は、日本の元ラグビー選手。

プロフィール

来歴

伏見工業高校時代に主将として、全国高等学校ラグビーフットボール大会に出場。高校日本代表に選ばれた。その後、同志社大学に進む。

1989年神戸製鋼に加入。1年目よりレギュラーとなり、神戸製鋼の日本選手権及び全国社会人ラグビーフットボール大会(以下、全国社会人大会)の2連覇に貢献。また、同チームのプレイスキッカーも担当。

1990年ワールドカップのアジア・太平洋予選となったトンガ代表戦が、日本代表としての初キャップ試合となった。そして日本代表でもプレイスキッカーを務めることになった。

1991年1月8日三洋電機と対戦した全国社会人大会決勝(秩父宮ラグビー場)で神戸製鋼は大苦戦を強いられたが、ノーサイド直前までノートライながらも、当人が4つのペナルティゴールを決めていたおかげで、12-16と1トライ差[1]まで肉薄していた。そしてロスタイムの終盤に入り、イアン・ウィリアムスが50メートルを独走してトライ。そして当人が真正面のゴールキックを決め、神戸製鋼は奇跡ともいえる、全国社会人大会3連覇を達成。続く日本選手権でも3連覇を達成した。なお、当人はその後、6連覇まで全国社会人大会及び日本選手権のメンバーとして名を連ねた。また、1991年のワールドカップでは、日本のキックにおける全得点をもたらした。

1994年、前任者の大西一平の後を受け、神戸製鋼の主将に就任。しかし、近鉄花園ラグビー場で行われた全国社会人大会1回戦の対リコー戦でアキレス腱を断裂し、これが影響して選手寿命を縮めた。

関連項目

参考文献

  • 2012年に豊川市立東部中学校で開催された講演会の資料 (PDF)
  • ザ・ワールドラグビー(大友信彦 編、新潮社、ISBN 4104627011)の44ページ
  • ラグビー日本代表激闘の記憶(ベースボール・マガジン社、ISBN 9784583620497)の69ページ

脚注

  1. ^ 当時、1トライ=4点だった。

外部リンク

  • 2019 ALL FOR JAPAN TEAM
日本の旗 歴代ラグビー日本代表キャップ保持者【BK:10-15篇:255名】
1930年代 (19名)
1950年代 (27名)
1960年代 (11名)
1970年代 (25名)
1980年代 (28名)
1990年代 (30名)
2000年代 (56名)
2010年代 (45名)
2020年代 (14名)
  • プロップ
  • フッカー
  • FWフロントロー以外
  • スクラムハーフ
  • BK9番以外
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