紀元前393年

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紀元前393年(きげんぜん393ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「ポプリコラとコルネリウスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元361年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前393年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

ギリシア

  • コリントス戦争紀元前395年 - 紀元前387年
    • アテナイの将軍コノンとアケメネス朝ペルシア帝国サトラップ(太守)ファルナバゾス2世は、ギリシア本土に向かい、ラコニアの沿岸を襲撃し、キュテーラ島を占領し、守備隊とアテナイ人の総督を置いた。
    • ファルナバゾスは、相当の資金と艦隊の大部分をコノンに与えてアッティケーへ派遣し、前年にトラスブロス (Thrasybulus) が始めた、アテナイからピレウスまでを結ぶ長城の再建に参加させた。この建設は、程なくして完工し、アテナイはこれによる防衛態勢の強化をすぐに活かして、スキュロス島イムブロス島レムノス島などを制服し、そこにクレルキア(Cleruchy)、すなわち住民がアテナイ市民としての身分を持ったまま移住し、政治的自治権を持たない植民都市を建設した。
    • コリントスでは、民主政派と寡頭政派の闘争が始まった。アルゴスに支援された民主政派は、敵対者への一斉攻撃に出て、寡頭政派を都市から追い出した。追い出された者たちは、当時シキュオノス (Sicyon) を拠点としていたスパルタ軍のもとへ向かい、支援を求めた。一方、アテナイとボイオーティアは、民主政派を支援した。
    • スパルタ軍と亡命者たちは、コリンティアコス湾に臨むコリントスの港町レカエウム (Lechaeum) に夜襲をかけてこれを陥れ、翌日になってやってきた敵軍も打ち破った。

マケドニア王国

エジプト

  • ネフアアルド1世が死去し、後継にネフアアルド1世の息子ムティス (Muthis) を推す一派とプサムティスを推す一派が争った。この争いにはプサムティスが勝ったが、その統治はこの年のうちに終わりを告げた。
  • ハコルは、第29王朝開祖ネフアアルド1世の孫であると自称し、プサムティスから王座を奪い取った。

中国

  • 魏がを攻める。
  • 晋の烈公が薨去し、子の孝公が即位する。

誕生

「Category:紀元前393年生」も参照

死去

「Category:紀元前393年没」も参照

脚注

注釈

出典

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関連項目

ウィキメディア・コモンズには、紀元前393年に関連するカテゴリがあります。
紀元前4世紀の十年紀と各年
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