紀元前188年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前200年代 前190年代 前180年代 前170年代 前160年代 |
年 | 前191年 前190年 前189年 紀元前188年 前187年 前186年 前185年 |
紀元前188年(きげんぜん188ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元566年、マルクス・ウァレリウス・メッサッラとガイウス・リウィウス・サリナトルが執政官の年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
ギリシア
- アカイア同盟のリーダーであるメガロポリスのフィロポイメンは、彼の軍とスパルタの亡命者を率いてラコニア県北部に侵入した。彼の軍は、前のスパルタとナビスの僭主がスパルタの周りに築いた壁を破壊した。その後フィロポイメンは亡命者にスパルタの市民権を回復し、スパルタの法律を廃止してアカイアの法律を導入した。ギリシアにおけるスパルタの勢力はなくなり、アカイア同盟がペロポネソス半島全体の覇権を握った。
共和政ローマ
- 執政官サリナトルはガッリア地方を担当、フォルム・リウィイを建設した[1](後のフォルリ)。
- 護民官のプレプス民会決議により、アルピヌム、フンディ、フォルミアエにローマ市民権が付与された[2]。
- プロコンスル(前執政官)マルクス・フルウィウス・ノビリオル (紀元前189年の執政官)がアカイア同盟とスパルタの問題に介入した[2]。
- プロコンスルのグナエウス・マンリウス・ウルソが10人の使節団と共にアンティオコス3世 (セレウコス朝)との和平と小アシアへの植民を取りまとめ、帰国の途についた[2]。
- アパメイアの和約により、ローマはアンティオコスに対してギリシアと小アシアの領土をトロス山脈より東とし、12年間で賠償金15,000タレントを支払わせ、カルタゴの前将軍ハンニバルを降伏させた。セレウコス朝はシリア、メソポタミア、西イランの範囲に減らされ、ローマは東地中海の覇権を握った。
小アジア
- ハンニバルはクレタ島を経て、ローマの同盟軍であるペルガモン王国のエウメネス2世と敵対していたビチュニアのプルシアス1世のところまで逃げた。
- アパメイアの和約によって、エウメネス2世はフリジア、リディア、リュキア、ピシディア、パンフィリアをローマの同盟国から得た。ローマはアナトリアの領有を望まなかったが、将来セレウコス朝が拡大する可能性に備えて親ローマで強力な緩衝地帯として残しておきたかった。
中国
誕生
「Category:紀元前188年生」も参照
死去
「Category:紀元前188年没」も参照
- 恵帝:前漢の第2代皇帝(紀元前210年生)
- クィントゥス・ミヌキウス・テルムス:紀元前193年の執政官[3]
脚注
注釈
出典
[脚注の使い方]
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
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