渡辺則綱

曖昧さ回避 この項目では、江戸時代後期の大名について記述しています。紀州藩家臣の同名の人物については「渡辺則綱 (紀州藩士)」をご覧ください。
曖昧さ回避 渡辺登綱」とは別人です。
 
凡例
渡辺 則綱
時代 江戸時代後期
生誕 天明8年5月8日(1788年6月11日
死没 天保3年4月10日(1832年5月10日[1]
改名 則綱→弄月斉[1]
官位 従五位下[1]越中守[2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
和泉伯太藩
氏族 三河渡辺氏
父母 父:渡辺豪綱
兄弟 春綱、亮綱、則綱
正室:岡部長備の養女岡部長住の娘)
潔綱(次男)、条綱(三男)
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渡辺 則綱(わたなべ のりつな)は、江戸時代後期の大名和泉国伯太藩の第7代藩主。伯太藩渡辺家9代。

略歴

天明8年5月8日(1788年6月11日)、第5代藩主・渡辺豪綱の五男または六男として誕生した。

文化7年(1810年)6月2日、第6代藩主で兄の春綱の死去により、家督を相続した[3][2]。同年10月15日、第11代将軍・徳川家斉に拝謁し、12月16日、従五位下越中守に叙任する[1]文政11年(1828年)11月7日、隠居し、次男の潔綱に家督を譲った[1]

天保3年(1832年)4月10日、死去。享年45。

脚注

  1. ^ a b c d e 『仁孝天皇紀 編年史料 十四 15頁』
  2. ^ a b 『光格天皇紀 編年史料 一 110頁』
  3. ^ 春綱には娘しかいなかった。

出典

  • 『渡邉伯太家譜』
  • 『光格天皇紀』(文化七年自正月一日同至三月廿八日 一)
  • 『仁孝天皇紀』(文政十一年戊子十一月 上 十四)
渡辺氏伯太藩7代藩主 (1810年 - 1828年)
大庭寺藩
伯太藩