川崎憲次郎

川崎 憲次郎
2012年10月15日
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県佐伯市
生年月日 (1971-01-08) 1971年1月8日(53歳)
身長
体重
182 cm
87 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年5月9日
最終出場 2004年10月3日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
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川崎 憲次郎(かわさき けんじろう、1971年1月8日 - )は、大分県佐伯市[1]出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者、野球指導者。妻は堀恵子。長女はモデルの川崎琴之。

現役時代はヤクルトスワローズ1989年 - 2000年)で主力投手として活躍し[2]、通算234試合に登板して88勝を挙げ[3]、特に対読売ジャイアンツ(巨人)戦では通算29勝を挙げた[2]。その活躍を買われてフリーエージェント(FA)移籍した中日ドラゴンズでも「巨人キラー」として活躍を期待されたが[2]、中日時代(2001年 - 2004年)は怪我に悩まされて1勝もできず現役を引退した。

経歴

プロ入り前

佐伯市立鶴岡小学校・佐伯市立佐伯城南中学校出身[2]大分県立津久見高等学校3年時の1988年の甲子園大会、第60回選抜高等学校野球大会及び第70回全国高等学校野球選手権大会に春夏連続出場した。特に第70回大会では「今大会NO.1右腕』の称号を提げ3回戦で『今大会NO.1左腕』篠田淳を要する大垣商に投げ勝つも準々決勝で優勝する広島商業と対戦し、0ー5で敗れるものの、春夏連続でベスト8に進出する[4]

1988年度のドラフト会議にて読売ジャイアンツ(巨人)とヤクルトスワローズが1位指名で競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得。後に契約金6000万円・年俸480万円(金額は推定)で合意[5][6]

ヤクルト時代

1989年(1年目)は13試合に先発し、4勝(うち1勝は読売ジャイアンツ戦での初完封)を挙げた。

1990年に12勝(13敗)を挙げ、先発ローテーションに定着する。9月8日の対巨人戦では、吉村禎章に巨人の優勝を決めるサヨナラ本塁打を浴びた[注 1]

1991年、チーム2位の14勝を挙げチーム11年ぶりのAクラス入りに貢献した。

1992年はチームは14年ぶりのリーグ制覇をしたものの、自身は故障でシーズン一軍未登板に終わる。

1993年、先発ローテーションに復帰し見事二桁勝利を挙げカムバック賞を受賞、1993年の日本シリーズでは2勝を挙げシリーズMVPに選出された[7]

1994年、自身初の開幕投手に抜擢され見事勝利投手になったが、年間通しては不振の投球が目立ち、8月頭に怪我で二軍落ちするとそのまま一軍復帰することが出来ずシーズンを終えてしまった。

1995年可愛かずみとの交際が発覚する[8]

その後は故障によって成績が下降したが、1997年にシュートを覚えて復活。以降周囲から「シュート馬鹿」「シュートしかストライクが入らない」と評される程のシュート特化の投手として名を馳せた[9]

シーズンオフの11月にキャンペーンガール女優堀恵子と結婚。

1998年に17勝で沢村賞と最多勝を獲得、シーズン奪三振が100未満での沢村賞は史上唯一。

ヤクルト最終年の2000年は一軍で20試合に登板して8勝10敗(防御率3.55)の成績で、対巨人戦では5勝2敗・防御率1.84(投球回数63回2/3)だった[10]。同シーズン終了後にフリーエージェント(FA)権の行使を宣言した当初、川崎本人が考えていた選択肢は「ヤクルト残留」「かねてから憧れていたMLB挑戦」の2択だったが、川崎は宣言後のヤクルト球団の対応に不満を抱き、次第にその心情は移籍に傾いて行った[11]。一方で星野仙一が監督を務めていた中日ドラゴンズはFA宣言と同時に獲得に名乗りを上げ[11][2]、MLBのボストン・レッドソックスも川崎獲得の意向を示した[注 2][12]

最終的には星野ら中日球団幹部の熱心な呼びかけによりFA宣言から約1週間後には「国内移籍するなら中日にしよう」という意思が強くなり、約1か月後にMLB移籍を断念した段階で中日へ移籍する意思を最終的に固め[11]、12月17日に移籍を表明[13]。契約内容は年俸2億円の4年契約(3年間総額6億円+4年目は本人に選択権あり)だった[注 3][15]。同シーズンの中日はリーグ2位ではあったが巨人戦で9勝18敗と大きく負け越しており[注 4][2][16]、同年までに対巨人戦で(当時現役選手としては最多の)通算29勝を挙げていた川崎の「巨人キラー」っぷりを買っての補強で[10]、背番号も杉下茂権藤博・星野・小松辰雄宣銅烈らエース級投手たちが背負ってきたエースナンバーである20を引き継いだ[注 5][16]

川崎は中日移籍表明直後(2000年12月20日)に日本プロ野球選手会(JPBPA)を通じて「ヤクルトがMLB・中日から提示された条件を比較・検討して最終的に提示した条件[注 6]が仮に最初から出ていればFA宣言せず残留していたかもしれない。ヤクルトとの交渉に当たっては最終的に球団社長から謝罪の言葉を受けており、現時点では既にわだかまりはない」とのコメントを掲載している[11]

中日時代

中日では星野仙一監督以下首脳陣やファンから大きな期待を掛けられ[16]、本人も「星野監督が望むように『ジャイアンツ・キラー』として(中日の本拠地)ナゴヤドームのマウンドに立ちたい」と抱負を述べていた[11]2001年の公式ファンブックでも「Vの使者」「川崎が巨人戦であと6勝すれば星野監督の巨人戦通算勝利数(35勝)に並ぶが、それが今年達成されれば中日の(1999年以来)2年ぶりの優勝もより近くなる」と紹介されていたが[2]、同年3月14日のオープン戦・大阪近鉄バファローズ戦で右上腕三頭筋の違和感を訴えて途中降板し、同月23日には長期離脱が発覚する[17]。同年は二軍(ウエスタン・リーグ)でわずか1試合(2イニング)を投げただけで終わり[注 7][19]、中日は川崎の離脱に加えて先発投手として計算していた武田一浩川上憲伸や新外国人(ティム・アンローオジー・ティモンズ)の不調などから5位に低迷し、星野はシーズン閉幕を待たず9月25日に辞任を表明した[20]

監督が山田久志に交代した2002年も二軍で3試合に登板したのみ(0勝2敗・防御率9.00)で[21]2003年は二軍ウ・リーグで13試合に登板し4勝4敗(防御率5.58)の成績を挙げたが[注 8]、同年まで3年連続で一軍登板なしに終わった[23]

原因不明の右肩故障に悩まされつつも治療のため全国を歩き整体・鍼・耳ツボなどの治療を試みたほか、右肩のお祓いも受けたが症状は改善せず[24]、2003年にはオールスターゲーム(球宴)のファン投票で「川崎祭」と呼ばれるインターネット上の嫌がらせ騒動に巻き込まれた[25]。これを受け、川崎は同年6月23日に選手会公式ホームページに「多少のケガをおしてプレーしている選手に申し訳ない気持ちでいっぱい。今の状況で出場することはできない。1票1票を自分への叱咤激励だと思って、1日でも早く一軍で投げられるように頑張る」と声明文を掲載し[26]、球宴への出場も辞退した[27]。2003年12月16日には事前の契約条項により年俸25%減(5000万円減)となる年俸1億5000万円で契約を更改したが[14]、その際には「年俸ゼロ円でいいから何とか恩返しがしたい」とつぶやいていた[28]

2004年1月3日、この年から中日の監督に就任した落合博満は川崎に電話し、4月2日の開幕投手を告げる[注 9][30][28]。川崎は「すべてを賭けるつもりで」この突然の打診を引き受け、痛み止めの座薬・飲み薬を併用して1,274日ぶりの一軍マウンドに臨んだが[31]、開幕戦は初回こそ0点に抑えたものの、その後打ち込まれて1回1/3を5失点で降板した[30]が、チームは逆転勝利したため敗戦投手は免れた[32]。4月30日の対横浜ベイスターズ戦で再び先発するも、1死もとれずに5失点で降板し敗戦[33]。結局、その1敗が中日移籍後の最初で最後の成績となった。2011年に監督を退任した落合は退任会見で監督時代一番印象に残った試合について3年間登板のなかった川崎を開幕投手に指名した一戦を挙げた[34]

チームの優勝が決まった翌日の10月2日に落合から戦力外通告を受けて現役引退を決意[31]。「引退するなら、明日投げろ」との落合の計らいで、翌10月3日の対ヤクルト戦が引退試合として行われた[35]。先発投手として登板した川崎は、古巣ヤクルトの主力(古田敦也宮本慎也岩村明憲)から三者三振を奪い、花道を飾った[31]。試合後、中日・ヤクルト両ナインから胴上げされた[24]

引退後

2019年7月11日

テレビ東京(2009年まで)、ニッポン放送(2011年まで)、J SPORTSフジテレビONE2010年にゲスト解説として出演)の野球解説者となった。

2005年オフに東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した野村克也から投手コーチ就任を打診されたが、川崎は解説者として少し外側から野球を見たいなという気持ちがあって断ったという[36]。また、テレビ愛知のゲスト解説者として、テレビ愛知 ドラゴンズ戦中継 もっと!LIVE2011で解説を務めることもある。

2013年からは千葉ロッテマリーンズの一軍ブルペンコーチに就任する[37]。就任にあたって登録名を異体字の「川憲次郎」としている。9月4日から体調不良で休養した齊藤明雄に替わりにベンチ担当となり、斉藤が復帰後もベンチを担当した。

2014年10月5日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された[38]

2015年からはJ SPORTS解説者。

2015年以降、地元・佐伯でケーブルテレビ釣り番組に出演して地元をPR活動していた。それらの近況も含め、2018年2月3日のテレビ東京系『追跡LIVE! Sports ウォッチャー』の密着取材特集で紹介された[39]

2018年3月7日四国アイランドリーグplus香川オリーブガイナーズの投手コーチに就任することが発表された[40]。「主に公式戦に合わせてチームに合流し、指導する」と報じられた[41]。12月12日に今季の契約期間満了をもって退団することが発表された[42]

2021年3月27日、地元・佐伯市の佐伯中央病院スタジアムでおこなわれた九州アジアリーグ初の公式戦で、始球式に登板した[43]

その他

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1989 ヤクルト 23 13 4 1 0 4 4 1 -- .500 399 98.1 81 12 30 1 0 86 4 0 45 43 3.94 1.13
1990 29 26 15 4 2 12 13 0 -- .480 850 202.1 194 26 73 1 1 154 7 0 97 91 4.05 1.32
1991 28 25 15 3 1 14 9 1 -- .609 772 191.2 159 22 65 2 6 148 4 0 69 62 2.91 1.17
1993 27 20 5 1 0 10 9 0 -- .526 582 139.2 120 13 61 1 0 108 4 0 55 54 3.48 1.30
1994 20 18 4 0 0 6 9 0 -- .400 514 114.2 117 10 52 1 5 67 10 0 69 61 4.79 1.47
1995 7 5 0 0 0 3 0 0 -- 1.000 124 29.2 28 3 8 1 2 19 0 0 9 6 1.82 1.21
1996 5 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 41 9.1 12 2 2 0 1 2 0 0 4 4 3.86 1.50
1997 22 19 4 1 1 7 5 0 -- .583 496 116.0 118 20 46 2 3 48 8 0 61 54 4.19 1.41
1998 29 28 9 3 2 17 10 0 -- .630 845 204.1 195 22 55 4 3 94 4 0 79 69 3.04 1.22
1999 24 24 6 2 0 7 11 0 -- .389 705 166.0 188 17 41 4 7 79 6 0 71 71 3.85 1.38
2000 20 20 2 0 0 8 10 0 -- .444 576 137.0 136 11 39 3 5 66 2 0 58 54 3.55 1.28
2004 中日 3 3 0 0 0 0 1 0 -- .000 18 2.1 8 0 3 0 1 3 0 0 9 9 34.71 4.71
通算:12年 237 202 64 15 6 88 81 2 -- .521 5922 1411.1 1356 158 475 20 34 874 49 0 626 578 3.69 1.30
  • 各年度の太字はリーグ最高。

タイトル

表彰

記録

初記録
  • 初登板:1989年5月9日、対阪神タイガース3回戦(明治神宮野球場)、5回表1死に3番手として救援登板、2回2/3を無失点
  • 初奪三振:同上、5回表に和田豊から
  • 初先発:1989年5月23日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、5回0/3を7失点(自責点5)で敗戦投手
  • 初完投:1989年8月13日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)、8回3失点(雨天コールド)
  • 初セーブ:1989年8月17日、対阪神タイガース20回戦(グリーンスタジアム神戸)、6回裏に2番手として救援登板・完了、4回無失点 ※18歳7ヶ月での記録は史上最年少
  • 初勝利:1989年9月2日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、7回1失点
  • 初完投勝利・初完封勝利:1989年9月24日、対読売ジャイアンツ24回戦(明治神宮野球場)
節目の記録
  • 1000投球回:1998年7月14日、対阪神タイガース13回戦(明治神宮野球場)、1回表2死目に桧山進次郎を一塁ゴロ併殺で達成 ※史上277人目
その他の記録
  • 開幕投手:2回 (1994年、2004年)
  • オールスターゲーム出場:4回 (1990年、1991年、1998年、2000年)

背番号

  • 17 (1989年 - 2000年)
  • 20 (2001年 - 2004年)
  • 84 (2013年 - 2014年)
  • 81 (2018年)

登録名

  • 川崎 憲次郎 (かわさき けんじろう、1989年 - 2004年、2018年)
  • 川﨑 憲次郎 (かわさき けんじろう、2013年 - 2014年)

関連情報

著書

単著

  • 『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』(KKロングセラーズ:2012年12月) ISBN 978-4-845-42266-1

監修

  • 『小・中学生のための最強エース育成バイブル』(ベースボール・マガジン社、2008年9月、ISBN 9784583615554)
  • 『少年野球上達パーフェクトマニュアル』(元木大介共監修、ベースボール・マガジン社、2010年5月、ISBN 9784583102603)

関連書籍

  • 『プロ野球 戦力外通告を受けた男たちの涙』(美山和也・加藤慶・田口元義共著、宝島SUGOI文庫、2012年5月、ISBN 9784796697262)

出演番組

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 川崎は、1989年に吉村が大怪我から復帰した初打席にも投球し、内野ゴロに打ち取っている。
  2. ^ レッドソックス以外にもクリーブランド・インディアンスフィラデルフィア・フィリーズシカゴ・カブスコロラド・ロッキーズが獲得に名乗りを上げていたが、特にレッドソックスは最終的な提示条件で2年契約・最低保障金5億円と熱心に勧誘しており、川崎本人も「『アメリカに行くならここ(レッドソックス)にしよう』と思った。家族もMLB挑戦を全面的にサポートする準備をしてくれていたが、自分を含め家族全員の幸せを考えて『日本残留の方がベターだ』と考え断念した」と述べている[11]
  3. ^ 入団当初は3年契約と発表されていたが、実質的には4年目の契約について川崎にオプション契約の選択権がある契約だった[14]。なお出来高の権利は2003年オフの契約更改で本人が放棄している[14]
  4. ^ 1997年 - 1999年の中日は巨人戦で3年連続で勝ち越しを記録していたが、2000年は本拠地ナゴヤドームで2勝12敗と大幅に負け越した[2]
  5. ^ 1999年オフにそれまで背番号20を着用していた宣が引退しており、2000年シーズンは1年間空き番号となっていた。
  6. ^ その条件は若松勉監督やコーチ・選手全員が球団に「川崎残留」を強く要望した結果出されたものだった[11]。なお一部では「川崎側が3年12億円契約を要求した」と報道されたが、本人は「そこまで無謀な条件は望んでいなかった」と否定している[11]
  7. ^ 2001年5月12日にナゴヤ球場で開かれた対サーパス神戸(オリックス・ブルーウェーブの二軍)6回戦にて先発登板したが、2回を投げ7打数2被安打で2番手投手・中里篤史に交代し降板した[18]
  8. ^ 同年6月25日に開催されたウ・リーグの対近鉄前期8回戦(藤井寺球場)で、シーズン初先発登板し、5回1失点(打者18人に66球を投げ、被安打2)で移籍後初勝利を挙げている[22]
  9. ^ 後に落合は「投手コーチに話をせずに(川崎を)開幕投手を決めたのは、あの一度きりだ」と語っている。落合は川崎の開幕起用理由について「補強なしの全選手横一線のチームに刺激を与えることと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめること」と後に語っている[29]
  10. ^ 関東地方の試合を中心として不定期出演だが、年に1度だけ、ナゴヤドーム主催試合で行われる「ゆかたデー」開催日に担当する事が多い(川崎自身も浴衣姿で解説を務めたことがある)。
  11. ^ 基本的にセ・パ問わず裏送り中継での出演が中心で、本番を担当するのは年に数試合と非常に少なかった。2011年のシーズンは裏送り・予備のみで本番カードの出演はなかった。中日OBであることから、東海ラジオ ガッツナイターの裏送り制作時は解説者として出演することが多く、テレビ愛知のゲスト解説者でもあることから、テレビ愛知が関東の試合などを中継した翌日などに出演することもある。

出典

  1. ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、170ページ
  2. ^ a b c d e f g h 中日ドラゴンズ 2001, p. 18.
  3. ^ 中日ドラゴンズ 2001, p. 20.
  4. ^ Company, The Asahi Shimbun. “好投手と投げ合う津久見・川崎、スーパープレーが救った - 投票!甲子園ベストゲーム47 | 高校野球(甲子園):バーチャル高校野球 | スポーツブル (スポブル)”. バーチャル高校野球. 2021年9月11日閲覧。
  5. ^ 『朝日新聞』1988年12月4日付朝刊 (14版、27面)
  6. ^ 焼肉は1回10万円以上。川崎憲次郎が明かす「プロ野球とお金」の話
  7. ^ 『朝日新聞』1993年11月2日付朝刊 (14版、25面)
  8. ^ 「早世のマドンナたち② 可愛かずみ(3)」『アサ芸+』、徳間書店、2012年7月9日、2013年6月28日閲覧 
  9. ^ 打者も恐れる攻めの変化球・シュート 最高の使い手は?【フルタの方程式AWARDS】 フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】2022/01/25 (YouTube、2022年3月19日閲覧)
  10. ^ a b ホームラン 2001, p. 47.
  11. ^ a b c d e f g h 川崎憲次郎 (2000年12月20日). “中日ドラゴンズへFA移籍した川崎憲次郎投手から~ファンの皆さんへ”. 日本プロ野球選手会 公式ホームページ. 日本プロ野球選手会. 2003年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  12. ^ 『朝日新聞』2000年12月3日付朝刊 (14版、19面)
  13. ^ ベースボール・マガジン社 2001, p. 37.
  14. ^ a b c 島田明「川崎、「捨て身ではい上がる!!」 25%減の1億5000万円でサイン、出来高放棄」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年12月17日。2020年2月4日閲覧。オリジナルの2004年12月10日時点におけるアーカイブ。
  15. ^ 青山卓司「川崎、「どんな条件でも判」 勝負の4年目 「投げられるだけで幸せ」」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年11月28日。2020年2月4日閲覧。オリジナルの2004年12月9日時点におけるアーカイブ。
  16. ^ a b c 桃園書房 2006, p. 81.
  17. ^ ベースボール・マガジン社 2001, pp. 40–41.
  18. ^ ベースボール・マガジン社 2001, p. 743.
  19. ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2002』 第26巻第3号(通算264号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2002年3月号増刊〉、2002年3月31日、97頁。 
  20. ^ ベースボール・マガジン社 2001, pp. 16–17.
  21. ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2003』 第27巻第3号(通算270号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2003年3月号増刊〉、2003年3月29日、65頁。 
  22. ^ 『中日新聞』2003年6月26日朝刊第12版第一スポーツ面「川崎が今季初先発 5回1失点、白星 ウエスタン・リーグ」(中日新聞社) - 『中日新聞』縮刷版 2003年(平成15年)6月号1167頁。
  23. ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2004』 第28巻第3号(通算278号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2004年3月号増刊〉、2004年3月29日、49頁。 
  24. ^ a b 月刊ドラゴンズ & 2004-11, p. 13.
  25. ^ 「日めくりプロ野球 2012年6月 【6月17日】2003年 球宴中間発表 登板なしの川崎憲次郎 ファン投票1位のナゾ」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2012年6月17日(原著2003年6月17日)。2020年3月2日閲覧。オリジナルの2020年3月2日時点におけるアーカイブ。
  26. ^ 川崎憲次郎 (2003年6月23日). “中日ドラゴンズ川崎憲次郎選手から~オールスターのファン投票について”. 日本プロ野球選手会 公式ホームページ. 日本プロ野球選手会. 2003年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  27. ^ 『中日新聞』2003年7月2日夕刊第10版第二社会面10頁「川崎やはり球宴辞退 ファン投票1位、自分への激励 『実績ある選手の出る場所』」(中日新聞社)
  28. ^ a b 月刊ドラゴンズ & 2004-11, pp. 13–14.
  29. ^ 森繁和著、参謀―落合監督を支えた右腕の「見守る力」講談社、2012年、P54-P55,P58
  30. ^ a b ““悔幕”川崎「入れ込みすぎた」 1274日ぶり1軍登板”. 中日スポーツ (2004年4月3日). 2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月11日閲覧。
  31. ^ a b c 月刊ドラゴンズ & 2004-11, p. 14.
  32. ^ “落合劇場、開幕白星スタート ビックリ 川崎先発、5点差大逆転”. 中日スポーツ (2004年4月3日). 2005年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月11日閲覧。
  33. ^ “川崎まだ投げさせる 1死も取れずKOそれでも 落合監督”. 中日スポーツ (2004年5月1日). 2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月11日閲覧。
  34. ^ “落合博満、野村克也、原辰徳 まさかの奇策も…名将たちは“初の開幕戦”でどんな采配を見せたのか”. デイリー新潮 (2022年3月13日). 2022年4月11日閲覧。
  35. ^ 川崎憲次郎が今も忘れない落合監督の「オレの仕事は選手のクビを切ること」発言と引退試合で流してくれた涙 Sportiva(水道博)、2022年9月26日、同日閲覧
  36. ^ [虎四ミーティング]川崎憲次郎(プロ野球解説者)<後編>「“怖さ”の松井と“嫌らしさ”の川相」 - 2012年3月23日
  37. ^ 川崎憲次郎氏 一軍ブルペンコーチ就任のお知らせ - 2012年10月31日
  38. ^ コーチとの来季契約についてロッテ球団公式サイト2014年10月5日配信
  39. ^ a b SPORTS ウォッチャー プロ野球キャンプ 中畑清が舞台裏潜入取材!(他) 2018/02/03(土)23:00放送 テレビ東京 TVでた蔵
  40. ^ 香川OG 新コーチ就任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2018年3月7日)
  41. ^ “香川OG 投手コーチに川崎氏(元ヤクルト)元広島、天野氏(高松市出身)も”. 四国新聞. (2018年3月8日). https://www.shikoku-np.co.jp/sports/iblj/20180308000146 2018年3月9日閲覧。 
  42. ^ 香川OG 川崎憲次郎投手コーチ退団のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2018年12月12日)
  43. ^ “大分B-リングス ホーム開幕戦飾れず”. テレビ大分. (2021年3月27日). https://www.tostv.jp/news/7812.html 2021年3月28日閲覧。 
  44. ^ saiki.tvの投稿(1587879841332484) - Facebook

参考文献

  • 『中日ドラゴンズ 2001ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、2001年3月9日、64頁。ISBN 978-4806204251。 
  • 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2001』 第25巻第2号(通算258号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2001年3月号増刊〉、2001年3月31日、47頁。 
  • ベースボール・マガジン社編集 編『ベースボール・レコード・ブック 2002』(第1版第1刷発行)ベースボール・マガジン社(発行人:池田哲雄)〈日本プロ野球記録年鑑〉、2001年12月25日、16-17,37,40-41,743頁。ISBN 978-4583036779。 
  • 文・寺西雅広(著)、三輪侑弘(編)「古巣相手ラストマウンド 川崎万感」『月刊ドラゴンズ』通巻第259号2004年11月号、中日新聞社、2004年11月1日、12-15頁。 
  • 佐々木だんきち「実録・川崎憲次郎物語~ドラゴンズ風雲編~」『中日力-なぜ中日は強いのか!?』45号、桃園書房〈TOEN MOOK〉、2006年10月15日、80-84頁。ISBN 978-4807842698。 

関連項目

外部リンク

  • 個人年度別成績 川崎憲次郎 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
  • 川崎憲次郎 (@kenjiroh17) - X(旧Twitter)
 
業績
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1947年制定。記述のない年は該当者なし。
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
セントラル・リーグ カムバック賞
1974年制定。上記以外の年は該当者なし。
中日ドラゴンズ開幕投手
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
ヤクルトスワローズ開幕投手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
ヤクルトスワローズ - 1988年ドラフト指名選手
指名選手
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  • VIAF
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