ルーシ・ビザンツ戦争

本項・「ルーシ・ビザンツ戦争(ルーシ・ビザンツせんそう)」は、ルーシ(キエフ大公国)と東ローマ帝国の間で展開された、9世紀から11世紀の諸戦闘戦争をまとめたものである。なお、862年の東ローマ帝国との戦争は、ヴァイキングノルマン人)主導で行われた[1][2]

年表

ルーシのカスピ海遠征(ロシア語版)」も参照
  • ルーシ・ビザンツ戦争 (830年代)→en:Rus'-Byzantine War (830s)
  • ルーシ・ビザンツ戦争 (860年)→en:Rus'-Byzantine War (860)
  • ルーシ・ビザンツ戦争 (907年)→en:Rus'-Byzantine War (907)、#キエフ大公オレグの侵攻
  • ルーシ・ビザンツ戦争 (941年)→en:Rus'-Byzantine War (941)、#イーゴリ1世の侵攻
  • ルーシ・ビザンツ戦争 (968-971年)→en:Rus'-Byzantine War (968-971)、#スヴャトスラフのブルガリア遠征
  • ルーシ・ビザンツ戦争 (981年)→en:Rus'-Byzantine War (987)
  • ルーシ・ビザンツ戦争 (1024年)→en:Rus'-Byzantine War (1024)
  • ルーシ・ビザンツ戦争 (1043年)→en:Rus'-Byzantine War (1043)、#ヤロスラフ賢公の侵攻

キエフ大公オレグの侵攻

詳細は「オレグ (キエフ大公)」を参照

907年、オレグはルーシ人を率いてコンスタンティノープルを襲撃した。この戦いはルーシ側の勝利に終わり、東ローマ帝国と有利な平和条約を結び、戦利品を伴ってキエフに帰還した。

イーゴリ1世の侵攻

詳細は「イーゴリ1世」を参照

イーゴリ1世は941年に、ヴァイキングヴァリャーグ)やスラヴ人兵士を引き連れて黒海沿岸の都市やコンスタンティノープル周辺を掠奪した。だがルーシ艦隊は東ローマ海軍に敗北し、戦利品を捨てて敗走した。

スヴャトスラフのブルガリア遠征

詳細は「スヴャトスラフ1世」を参照

東ローマ帝国の長年の敵国であったブルガリアの衰退を見たニケフォロス2世フォカスは、キエフ大公スヴャトスラフに多額の報償を与え、ブルガリア攻撃を乞うた。スヴャトスラフは東ローマの要請にこたえて967年に、ブルガリアに攻撃を開始し、その年の内にブルガリア軍を壊滅させてしまった。だがスヴャトスラフは占領した土地の引き渡しを拒否し、本拠地を、キエフから占領していたペレヤスラヴェツに移そうとしたため東ローマ側に警戒心と反感を持たれてしまった。 969年の夏、スヴャトスラフはブルガリア全土を征服した。そこでスヴャトスラフはニケフォロス2世フォカスを殺害して新たに皇帝となったヨハネス1世ツィミスケスからルーシの地に引き上げるようにと勧告を受けたが、これを黙殺し、逆に東ローマ領トラキアに侵攻した。だがスヴャトスラフは東ローマ軍に敗北し、二度とブルガリアに足を踏み入れないと約束させられてしまった。

ヤロスラフ賢公の侵攻

詳細は「ヤロスラフ1世」を参照

ルーシ人の商人がクリミアでギリシャ人に殺される事件が起こった。ヤロスラフは東ローマ側に損害賠償を求めたが、訴えは拒否された。この事件を口実にして、ヤロスラフは配下の艦隊にコンスタンティノープルを襲わせたが、ルーシ艦隊はギリシャ火炎を装備した東ローマ海軍に敗れてしまい。賠償金を得ることもできず、退却した。 この戦い以降、キエフルーシと東ローマ側との間に大きな戦いが行われる事はなかった。

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ 『ヴァイキングの足跡』pp. 117-118。ルーシ年代記では、アスコルドジル[要曖昧さ回避]が参加し、襲撃した後、帰郷したと記されている。[要出典]
  2. ^ 『物語 北欧の歴史』p. 10。ドニエプル川黒海を南下し、コンスタンティノープルを襲撃したが、嵐によって壊滅した。[要出典]

参考文献

  • 武田龍夫『物語 北欧の歴史 - モデル国家の生成』中央公論新社中公新書 1131〉、1993年5月。ISBN 978-4-12-101131-2。
  • グスタフ・ファーバー(ドイツ語版)『ヴァイキングの足跡 - 「海賊・冒険・建国の民」ノルマン人の謎』片岡哲史戸叶勝也訳、アリアドネ企画〈Ariadne romantic - 古代文明の謎を追え!〉、1997年11月。ISBN 978-4-384-02374-9。

関連項目