エドワード・ブルワー=リットン

初代リットン男爵エドワード・ブルワー=リットン
Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton
ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギルによるリットン男爵の肖像(ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)
生年月日 1803年5月25日
出生地 イギリスの旗 イギリスイングランドロンドンベイカー・ストリート
没年月日 (1873-01-18) 1873年1月18日(69歳没)
出身校 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
ケンブリッジ大学トリニティ・ホール(英語版)
所属政党 ホイッグ党 → 保守党
称号 枢密顧問官(PC)
配偶者 ロジーナ・ブルワー=リットン(旧姓ウィーラー)
親族 初代リットン伯爵(子)
第2代リットン伯爵(孫)

内閣 第2次ダービー内閣
在任期間 1858年6月5日 - 1859年6月11日

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 リンカーン選挙区(英語版)
ハートフォードシャー選挙区(英語版)
在任期間 1832年12月10日 - 1841年6月29日
1852年7月7日 - 1866年7月14日[1]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1866年7月14日 - 1873年1月18日
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初代リットン男爵エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー=リットン: Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, PC1803年5月25日 - 1873年1月18日)は、イギリスの小説家、劇作家、政治家、貴族。小説『ポンペイ最後の日』(The Last Days of Pompeii )が代表作として知られ、戯曲『リシュリュー』(Richelieu; Or the Conspiracy)に登場する文句「ペンは剣よりも強し」(“The pen is mightier than the sword”)」は名高い。政治家としては1858年から1859年にかけて保守党政権の植民地大臣を務めたことが特筆される。

経歴

リットン男爵の写真(アンドレ=アドルフ=ウジェーヌ・ディズデリ(フランス語版)撮影)

1803年5月25日ノーフォークヘイドン・ホール(英語版)を本拠とする地主で陸軍大将のウィリアム・アール・ブルワー(William Earle Bulwer)とその妻エリザベス・バーバラ・ブルワー(旧姓ウォーバートン=リットン)(Elizabeth Barbara Warburton-Lytton)の間の三男としてロンドンベイカー・ストリートに生まれる[2][3]。生誕時の名前は「エドワード・ジョージ・アール・リットン・ブルワー」(Edward George Earle Lytton Bulwer)[2]

ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、ついで同大学のトリニティ・ホール(英語版)で学ぶ[3]。ケンブリッジ在学中に一時キャロライン・ラムと愛人関係を持っていた[4]

1827年ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に影響を受けた悲劇的小説『Falkland』を出版した。さらに1828年6月には『ペラム(Pelham)』を出版[3]。これはベンジャミン・ディズレーリの「ビビアン・グレイ」に多分に影響を受けていた作品でセンセーションを巻き起こした[4]1830年頃からディズレーリの友人になった[4]

1831年4月30日セント・アイヴス選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党の庶民院議員となる[3]1832年からはリンカーン選挙区(英語版)から選出される。1838年には準男爵に叙せられた。しかし1841年総選挙(英語版)では落選の憂き目を見た[3]

この間も小説を精力的に執筆し、1832年には『ユージン・アラム(英語版)』、1833年には『ゴドルフィン(英語版)』、1834年には『ポンペイ最後の日』と『The Pilgrims of the Rhine』、1835年には『Rienzi』、1837年には『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』、1841年には『Night and Morning』、1842年には『ザノニ(英語版)』を出版した[3]。同時期に劇作家としても活躍し、1836年には最初の演劇脚本『The Duchess de la Vallière』を書いた。これは興行的に失敗に終わったものの、1838年の『The Lady of Lyons』では大きな成功を収めた[3]。 さらに1839年には『リシュリュー』、1840年には『マネー(英語版)』といった脚本も書いた[3]

1841年に議席を失った後、ドイツ旅行に出た[3]1843年に歴史小説『The Last of the Barons』を出版した[3]1843年12月の母の死によりリットン家のネブワースの土地であるネブワース・ハウスを相続し[3]1844年2月20日には勅許を得て「ブルワー=リットン」姓に改姓した[2]1846年には小説『Confessions of a Water Patient』、詩『The New Timon』、1848年には歴史小説『Harold』と叙事詩『King Arthur』、1849年には小説『The Caxtons: A Family Picture』を出版[3]1849年にはコメディの脚本『Not so bad as we seem』を書いた[3]

1852年ハートフォードシャー選挙区(英語版)から選出されて再び庶民院議員となる。穀物法を廃止したことに反対していたため、保守党の議員となった。以降1866年に貴族院議員に列するまでこの議席を保持した[3]

1858年から1859年にかけては保守党政権第2次ダービー伯爵内閣において植民地大臣を務めた[3]。植民地大臣としてブリティッシュ・コロンビア植民地(英語版)の創設にあたった。これは金鉱の発掘と人口流入のため必要となったものである。またオーストラリアでは、クイーンズランド州ニューサウスウェールズ州から分離させた。植民地各地の町で彼の名にちなむリットンという名前への改名が行われた[3]

植民地大臣退任後は政治的活動は少なくなった。1862年には『A Strange Story』、さらに後に『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』を出版した[3]

1866年7月に第3次ダービー伯爵内閣が成立した際に連合王国貴族爵位リットン男爵に叙されて貴族院議員に列した[3]

1873年1月18日に死去[3]。爵位は一人息子のロバート・ブルワー=リットンが継承した。

日本におけるリットン卿

日本では明治維新によって西欧の新知識に触れることができるようになり、西洋小説も明治時代から翻訳されるようになった。西洋小説で真っ先に翻訳されたのがリットンやディズレーリの政治小説だった[5]。日本で最初に翻訳された西洋小説は、リットンが著した恋愛小説『アーネスト・マルトラヴァーズ(Ernest Maltravers)』とその続編『アリス(Alice)』を丹羽淳一郎が訳した『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)である[6][7]河竹黙阿弥も明治12年(1879年)にリットンの戯曲『マネー』を翻案して歌舞伎演目『人間万事金世中』を書いた。

また、孫の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンリットン調査団の団長として有名である。

栄典

爵位/準男爵位

1838年7月18日に以下の準男爵位を新規に叙された[2]

  • (ハートフォード州におけるネブワースの)初代準男爵(1st Baronet "of Knebworth, co. Hertford")
    (勅許状による連合王国準男爵位)

1866年7月14日に以下の爵位を新規に叙される[2]

  • ハートフォード州におけるネブワースの初代リットン男爵 (1st Baron Lytton of Knebworth, co. Hertford)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)

家族

1827年8月29日にロジーナ・ドイル・ウィーラー(Rosina Doyle Wheeler)と結婚。彼女との間に以下の2子を儲けた。

  • エミリー・エリザベス・ブルワー=リットン (Emily Elizabeth Bulwer-Lytton, 生年不明-1848年)
  • エドワード・ロバート・ブルワー=リットン (Edward Robert Bulwer-Lytton, 1831-1891) - 初代リットン伯、第2代リットン男爵。インド総督

著作

小説

  • 『フォークランド(Falkland)』 (1827年)[8]
  • 『ペラム(Pelham: or The Adventures of a Gentleman)』 (1828年)[8] Available online
  • 『The Disowned』 (1829年)
  • 『デヴァルー(Devereux)』 (1829年)
  • ポール・クリフォード(英語版)』 (1830年) Available online
  • ユージン・アラム(英語版)』 (1832年) Available online
  • ゴドルフィン(英語版)』 (1833年)
  • 野放しのアスモデウス(英語版)』 (1833年)
  • 『ポンペイ最後の日』 (1834年) Available online
  • 『The Pilgrims of the Rhine』 (1834年)
  • 『Rienzi, the last of the Roman tribunes』 (1835年)[8] Available online
  • 『The Student』 (1835年)
  • 『Calderon, the Courtier』 (1838年)
  • レイラ グラナダ包囲戦(英語版)』 (1838年) Available online
  • 『Zicci: a Tale』 (1838年) Available online
  • 『Night and Morning』 (1841年) Available online
  • ザノニ(英語版)』 (1842年) Available online
  • 『The Last of the Barons』 (1843年) Available online
  • 『Lucretia』 (1846年) Available online
  • 『Harold, the Last of the Saxons』 (1848年)[8] Available online
  • 『The Caxtons: A Family Picture』 (1849年)[8] Available online
  • 『My Novel, or Varieties in English Life』 (1853年)[8]
  • 『The Haunted and the Haunters or The House and the Brain』 (1859年) Available online
  • 『What Will He Do With It?』 (1858年)[8]
  • 『A Strange Story』 (1862年) Available online
  • 来るべき種族(英語版)』(別題『ヴリル』)The Coming Race (1871年) Available online
  • 『ケネルム・チリングリー(Kenelm Chillingly)』 (1873年)
  • 『The Parisians』 (1873)[8]
  • 『Pausanias, the Spartan』 (1873年) 未完成

シリーズ

  1. 『アーネスト・マルトレイヴァース(Ernest Maltravers)』 (1837年)
  2. 『アリス (Alice, or The Mysteries)』 (1838年) アーネスト・マルトレイヴァースの続編 Available online

  • 『Ismael』 (1820年)[8]
  • 『The New Timon』 (1846年)[8]
  • 『King Arthur』(1848–1849)[8]

脚本

  • 『The Duchess de la Vallière』 (1837年)
  • リヨンの女(英語版)』 (1838年)[9]
  • 『リシュリュー』 (1839年), 1935年に『枢機卿リシュリュー(英語版)』として映画化
  • マネー(英語版)』 (1840年)
  • 『Not So Bad as We Seem, or, Many Sides to a Character: A Comedy in Five Acts』 (1851年)
  • 『The Rightful Heir』 (1868), based on The Sea Captain, an earlier play of Lytton's
  • 『Walpole, or Every Man Has His Price』
  • 『Darnley』 (未完成)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

出典

  1. ^ UK Parliament. “Lord Brudenell” (英語). HANSARD 1803–2005. 2019年5月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e Lundy, Darryl. “Edward George Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton of Knebworth” (英語). thepeerage.com. 2019年5月28日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s  この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む: Stephen, Leslie (1893). "Lytton, Edward George Earle Lytton Bulwer-". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 34. London: Smith, Elder & Co. pp. 380–387.
  4. ^ a b c ブレイク 1993, p. 63.
  5. ^ 平凡社『世界大百科事典』【イギリス文学】の項目
  6. ^ 杉原四郎編 1995, p. 107-108.
  7. ^ 清末政治小説の術語、概念の形成と明治政治小説との関わり寇振鋒、 (名古屋大学, 2007-11-15) 掲載雑誌名:言語文化論集. 29(1)
  8. ^ a b c d e f g h i j k Drabble, Margaret (2000). The Oxford Companion to English Literature (sixth edition), pp. 147. Oxford, New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-866244-0 
  9. ^ Lytton, Edward Bulwer Lytton (2001年1月1日). “The Lady of Lyons; Or, Love and Pride”. 2014年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月2日閲覧。

参考文献

関連項目

  • リットン (クイーンズランド)(英語版) - リットン男爵の名にちなむブリスベン郊外の地名

外部リンク

エドワード・ブルワー=リットンに関する
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グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
ウィリアム・ポール=ティルニー=ロング=ウェルズリー(英語版)
ジェイムズ・モリソン(英語版)
セント・アイヴス選挙区(英語版)選出庶民院議員
1831年 – 1832年(英語版)
同職:ジェイムズ・ハルゼ(英語版)
次代
ジェイムズ・ハルゼ(英語版)
先代
チャールズ・シブソープ(英語版)
ジョージ・ヘニッジ(英語版)
リンカーン選挙区(英語版)選出庶民院議員
1832年(英語版)1841年(英語版)
同職:ジョージ・ヘニッジ(英語版)(1835年まで)
チャールズ・シブソープ(英語版)(1835年から)
次代
チャールズ・シブソープ(英語版)
ウィリアム・コレット(英語版)
先代
トマス・プルーマー・ハルゼイ(英語版)
サー・ヘンリー・ミュークス準男爵(英語版)
トマス・ブランド(英語版)
ハートフォードシャー選挙区(英語版)選出庶民院議員
1852年(英語版) – 1866年
同職:トマス・プルーマー・ハルゼイ(英語版)(1854年まで)
サー・ヘンリー・ミュークス準男爵(英語版)(1847年–59年)
アベル・スミス(英語版)(1854年–57年)
クリストファー・ウィリアム・プラー(英語版)(1857年–64年)
アベル・スミス(英語版)(1859年–65年)
ヘンリー・サーティース(英語版)(1864年から)
ヘンリー・クーパー(英語版)(1865年から)
次代
ヘンリー・サーティース(英語版)
ヘンリー・クーパー(英語版)
アベル・スミス(英語版)
公職
先代
スタンリー卿
植民地大臣
1858年–1859年
次代
第5代ニューカッスル公爵
学職
先代
第8代アーガイル公爵
グラスゴー大学学長(英語版)
1856年–1859年
次代
第8代エルギン伯爵
イギリスの爵位
爵位創設 初代リットン男爵
1866年–1873年
次代
ロバート・ブルワー=リットン
初代準男爵
(ネブワースの)

1838年–1873年
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