ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)

ウスタシュ4世
 : Eustace IV
 : Eustache IV
ブローニュ伯(英語版)の紋章

ブローニュ伯(英語版)
先代 エティエンヌ
次代 ギヨーム1世

出生 1130年[1]
死亡 1153年8月27日
イングランド
サフォーク地方
ベリー・セント・エドマンズ(英語版)
埋葬 イングランド
ケント地方
フェヴァーシャム修道院
王室 ブロワ家
父親 エティエンヌ・ド・ブロワ
母親 マティルド・ド・ブローニュ
配偶者 コンスタンス・ド・フランス
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ウスタシュ4世 : Eustache IV /  : Eustace IV, 1127年 - 1153年8月17日)は、中世フランスの諸侯ブロワ家の家長であり、ブローニュ伯(英語版)(在位:1146年 - 1153年)の爵位を有した貴族である。イングランドスティーブンとブローニュ女伯マティルド・ド・ブローニュの長男として生まれ、ギヨーム1世(ウィリアム)とマリーの兄のであった。先のイングランド王ヘンリー1世が1135年に崩御した際にイングランド王位を獲得した父スティーブンの王位継承者のとなっていたものの、スティーブン王より先に亡くなった。

生涯

スティーブン王の王位継承者とされ、イングランドが無政府時代に入った頃の1137年、父の指示でフランスルイ7世に臣従、翌1138年に王妹コンスタンスと婚約してフランスの支持を取り付けた。しかし、1151年に又従弟に当たるノルマンディーアンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)がルイ7世に臣従してノルマンディー公位を承認してもらうと、対抗心を燃やした父の画策で共治王に戴冠される予定だったが、カンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベック(英語版)に反対され、ローマ教皇やイングランドの教会の協力も得られず実現しなかった[2]

母の死の前年にブローニュ伯を継承していたが、1153年1月にアンジューも継承したアンリがイングランドへ上陸、対する父は病気と母の死で気力が衰え、ベックと叔父のウィンチェスター司教(英語版)ヘンリー(英語版)の仲裁でアンリとの和睦を模索した。ウスタシュは和睦に反対してベックの領地を荒らし回ったが、8月17日に急死。偶然にも同日、大陸に残っていたアンリの妻アリエノール・ダキテーヌが息子ギヨーム9世を産んでいた[3]

これにより更に気落ちした父は和睦に傾き、ブローニュ伯はウスタシュの弟ギヨームが継承したが、イングランド王位はアンリを継承者とする取り決めがなされた(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)。遺体は父が建立に携わったケント・フェヴァーシャム修道院で両親と共に埋葬された[4]

フランス王ルイ6世の娘でルイ7世の妹コンスタンスと1140年に結婚したが、子供はなかった。コンスタンスは後にトゥールーズ伯レーモン5世と再婚した。

脚注

  1. ^ Heather J. Tanner, Eleanor of Aquitaine: Lord and Lady, ed. B. Wheeler, John C. Parsons, (Palgrave Macmillan, 2002), 153.
  2. ^ 青山、P228、ペルヌー、P94、朝治、P29 - P30、君塚、P63 - P64。
  3. ^ 石井、P219 - P221。
  4. ^ 青山、P228 - P229、ペルヌー、P119、ルゴエレル、P37 - P38、朝治、P31、君塚、P64。

参考文献

  • 石井美樹子『王妃エレアノール ふたつの国の王妃となった女平凡社、1988年。
  • 青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史1 -先史~中世-』山川出版社、1991年。
  • レジーヌ・ペルヌー著、福本秀子訳『王妃アリエノール・ダキテーヌ』パピルス、1996年。
  • アンリ・ルゴエレル著、福本秀子訳『プランタジネット家の人びと』白水社文庫クセジュ)、2000年。
  • 朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄編著『中世英仏関係史1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年。
  • 君塚直隆『物語 イギリスの歴史(上) 古代ブリテン島からエリザベス1世まで中央公論新社中公新書)、2015年。
先代
エティエンヌ
モルタン伯
1135年 - 1141年
次代
ジョフロワ
先代
マティルド1世
エティエンヌ
ブローニュ伯
1151年 - 1153年
次代
ギヨーム1世
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