アルブレヒト・フォン・バイエルン

アルブレヒト
Albrecht
ヴィッテルスバッハ家
アメリカ軍に解放されたアルブレヒト(中央)と家族。 左が父ループレヒト・右が息子フランツ。

全名
一覧参照
  • Albrecht Luitpold Ferdinand Michael
    アルブレヒト・ルイトポルト・フェルディナント・ミヒャエル
称号
敬称 殿下
出生 (1905-05-03) 1905年5月3日
ドイツの旗 ドイツ
バイエルン王国の旗 バイエルン王国ミュンヘン
死去 (1996-07-08) 1996年7月8日(91歳没)
ドイツの旗 ドイツ
バイエルン州シュタルンベルク、ベルク城
埋葬 ドイツの旗 ドイツバイエルン州シュタルンベルク、アンデクス修道院内ヴィッテルスバッハ墓地
配偶者 マリア・フランツィスカ
  マリー・イェンケ
子女
一覧参照
  • マリー・ガブリエーレ
    マリー・シャルロッテ
    フランツ
    マックス・エマヌエル
父親 ループレヒト
母親 マリー・ガブリエーレ
宗教 キリスト教カトリック教会
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アルブレヒト・フォン・バイエルンドイツ語: Albrecht von Bayern, 1905年5月3日 - 1996年7月8日)は、バイエルン王家家長。最後のバイエルン王ルートヴィヒ3世の孫にあたる。ホロコースト生還者。

生涯

祖父ルートヴィヒ王子(後に最後のバイエルン王となるルートヴィヒ3世)の従弟オットー1世の治世で曽祖父ルイトポルト王子が摂政であった1905年5月3日、後に最後のバイエルン王太子となるループレヒトと、最初の妃マリー・ガブリエーレとの間の次男として生まれた。バイエルン王家はナチス支配に反発し、1940年にアルプレヒトは家族と共に所領のあるハンガリーヴァシュ県へ移り住んだ。1944年10月にナチス・ドイツによってハンガリーが占領されると、バイエルン王家の人間たちは逮捕されて、ベルリン郊外オラニエンブルクザクセンハウゼン強制収容所に入れられた。1945年4月にダッハウ強制収容所へ移送され、そこでアメリカ軍によって解放された。

1955年8月の父ループレヒトの死により、50歳でバイエルン王家家長となった。同時に、支持者から「正統なイングランドスコットランドアイルランドおよびフランス王たるジャコバイトの王アルバート英語: Albert)」とされた。

家族

1930年にトラコスチャン伯爵令嬢マリア・フランツィスカ・ドラスコヴィチ(1904年 - 1969年)と結婚、2男2女を儲けた。

  • マリー・ガブリエーレ(1931年 - ) - 1957年にヴァルトブルク・ツー・ツァイル・ウント・トラウフブルク侯ゲオルク(1928年 - 2015年)と結婚。 
  • マリー・シャルロッテ(1931年 - 2018年) - マリー・ガブリエーレの双子の姉妹。1955年にクヴァット・ツー・ヴィクラート・ウント・イスニー公パウル(1930年 - 2011年)と結婚。
  • フランツ(1933年 - ) - バイエルン王家家長。
  • マックス・エマヌエル(1937年 - ) - スウェーデンの伯爵家出身のエリーザベトと結婚。

1971年、ブツィン伯爵令嬢マリー・イェンケ(1921年 - 1983年)と再婚した。子供はいない。

バイエルン王国旗 バイエルン王位請求者 バイエルン王章

ルートヴィヒ3世1918-1921 / ループレヒト1世1921-1955 / アルブレヒト1世1955-1996 / フランツ1世1996-現在

カテゴリ カテゴリ
ジャコバイトの旗ジャコバイト王位継承者
ステュアート家

ジェームズ2世および7世1688-1701 / ジェームズ3世および8世1701-1766 / チャールズ3世1766-1788 / ヘンリー9世およびヘンリー1788-1807

サヴォイ家
オーストリア=エステ家

フランシス1世1840-1875 / メアリー4世および3世1875-1919

ウィッテルズバック(バヴァリア)家

ロバートおよびロバート4世1919-1955 / アルバート1955-1996 / フランシス2世1996-現在

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